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「会津藩主松平家墓所」とは、会津松平家初代・保科正之が眠る猪苗代町見禰山の「土津神社」と会津若松市の「院内御廟」2カ所の総称で、昭和62(1987)年に国の史跡に指定をされています。
「院内御廟」は明暦3(1657)年、正之の長男・正頼が亡くなった時に、墓をこの場所に定めたのが最初で、以後、松平家の墓所に定められたといわれています。
約45,000坪もの広大な敷地には、西之御庭、中之御庭、2代墓所、入峰墓所と呼ばれる墓所があります。西之御庭、中之御庭には各代藩主の夫人、側室、子女が葬られており、2代正経が唯一仏式で祭られています。入峰墓所には、3代・正容から9代・容保まで神式で祀られていて、巨大な墓碑が建ち並んでいます。
ここにある歴代藩主の墓は、土津神社にある正之の墓にならい、前面に亀趺坐(きふざ)と呼ばれる亀型の石の上に建てられた碑石を置き、一段高い所に対の石燈籠、その奥に表石を配しています。碑石には幕府の教学の中心だった林大学頭(はやしだいがくのかみ)など当代随一の国文学者が作った文で、生い立ちや業績、経歴などが詳細に刻まれ、表石には生前の名前や身分などが記されています。さらにその奥に、八角形の鎭石(しずめいし)があり、その地中に棺が埋葬されています。このように藩主の墓は碑石、燈籠、表石、鎮石で一組の墓となっています。これらの石は会津若松市河東町の北山石を使用したといわれています。
会津藩主松平家墓所は正之が信奉していた吉川神道によって造られた非常に貴重なもので、江戸時代の大名の墓所の中でも類を見ない程の規模を誇っています。毎年5月4日には、松平家の当主が祭主となって、歴代藩主の霊を慰める「院内ご廟お花まつり」が行われています。