HOME » ふくしまと八重 八重が刻んだ「足跡」 » 棚倉藩の戊辰戦争
関東と東北の境目として、親藩・譜代の大名が治めていた棚倉藩。戊辰戦争の際、会津にいた藩主・阿部正静(あべまさきよ)に代わって、家老・阿部内膳(あべないぜん)が守っていました。慶応4(1868)4月に始まった白河口の戦いで、内膳は十六人組の隊長として活躍。「仙台烏に十六ささげなけりゃ官軍高枕」と新政府軍に恐れられました。「仙台烏」とは、仙台藩の細川十太夫が率いた、ゲリラ戦を得意とした衝撃隊のこと。「十六ささげ」とは、十六人組のことをさします。この名前の由来は、「身ささげる」ということから、または『十六ささげ』という豆に掛けられているのではないかと考えられています。内膳は槍や弓をもって奮戦しますが、同年5月1日、金勝寺で敵の弾丸に倒れました。
同年6月、新政府軍は白河に次いで棚倉を総攻撃。棚倉藩は白河口の戦いに多くの兵を出していたため、棚倉城にはほとんど守備兵がいませんでした。藩兵の一部は、棚倉北部の逆川で板垣退助率いる西軍800名を迎え撃ちますが、激しい攻撃に耐えられず、6月24日、棚倉城は落城・焼失しました。
明治17(1884)年、白河口の戦いによる棚倉藩戦死者の霊を祀るため、旧棚倉藩の重臣・平田文左衛門が、白河市の南湖公園内に棚倉藩鎮英碑を建立しました。大正3(1919)年からは、旧土佐藩士と白河の有志による白河鎮英魂保存会が、秋の彼岸に慰霊祭を行っています。