八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

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川崎尚之助

共に過ごし、共に戦った、八重が愛した男性

日新館の写真

尚之助が教鞭をとったとされる日新館。八重の兄・覚馬と共に勤めました。

川崎尚之助は八重の一度目の結婚相手です。
但馬出石藩医家のうまれで、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者でした。尚之助は会津藩校日新館に蘭学所が設置されたことを知り、八重の兄・覚馬を訪ねます。覚馬が尚之助の才能を見抜き仕官を薦め、尚之助がそれに応じて教授を務めることになりました。その縁で山本家に寄宿するようになり、のちに八重と結婚。尚之助と覚馬の深い繋がりを見ると、覚馬が八重と尚之助の結婚を進めたことは想像できます。しかしそれだけではなく、博識で才能溢れる兄を尊敬していた八重自身も、どこか兄に重なる尚之助に自然と心惹かれたのではないでしょうか。

八重と尚之助が結婚して3年後に戊辰戦争が勃発。鶴ヶ城籠城戦を前に二人は離婚しました。以前は離婚の理由として「八重が他藩の尚之助を籠城戦に巻き込まないため」といわれていましたが、尚之助がすでに会津藩士であったと確認できる資料が発見されるなどし、その謎はまだ解かれていません。

会津鶴ケ城

鶴ヶ城籠城戦中も、尚之助は八重の良きパートナーでした。

髪を断ち、弟・三郎の形見の袴を着て男装していた妻の姿に、尚之助は最初驚愕するも、一緒に籠城戦で戦います。砲術の心得のある八重は、大砲隊の指揮をとるなど尚之助を助けました。そしてその戦いの最中、尚之助は行方不明になります。これも以前は「藩籍を持たないために、開城に先立って城外に去っていた。あるいは追い出された」といわれておりましたが、前述の資料が発見されたため、今は「行方不明になった」という記述が用いられています。

その後は江戸に行き、塾で教鞭をとったという説が有力でしたが、これも詳細は不明。2011年12月に札幌市の北海道立文書館で公文書など40点が発見され、他の会津藩士たちと共に尚之助も斗南に行ったという説が浮上してきました。それは、尚之助が斗南藩の貧しさを何とか救おうと奮闘する記録がそこに記されていたからです。

離婚に関して、謎が多いながらも尚之助の気持ちはわかる気がします。他の会津藩士にも共通しているのですが、多くの藩士が鶴ヶ城開城の際に離婚しました。しかし事実として、その後多くの妻たちが自由の身になり、裕福な商家などと再婚できています。つまり、離婚は汚名を着せられ将来の夢が消え去った会津男子の妻に対する愛だったのではないか、といわれており、私もそのように感じずにはいられません。

八重は、離婚歴を隠そうとしたことなど1度もありません。それは尚之助との結婚を失敗とは思っておらず、誇りと感謝をもって生きてきたからでしょう。

尚之助に関してはまだまだ資料が少なく、これから通説がどんどん覆るかもしれません。しかし、知れば知るほど、その魅力は深まるばかり。さすが八重の選んだ男性だと感嘆してしまいます。

ゆかりの地

會津藩校 日新館

會津藩校 日新館(会津若松市)

鶴ヶ城

鶴ヶ城(会津若松市)

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