HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » 會津藩校 日新館
白虎隊が学んだことでも知られる会津藩校 日新館は、町民たちが作った日本で最初の教育場「稽古堂」を母体とし、会津松平家5代藩主 松平容頌の時代に作られたものです。戊辰戦争により校舎は焼失しましたが、1987(昭和62)年に會津藩校日新館として完全復元され、現代では博物館、研修・宿泊施設、映画撮影所などを兼ねています。
日新館は、天明の大飢饉や江戸時代中期の綱紀の緩みなど、会津藩に降りかかる様々な諸問題を解決するために、「教育の振興と人材の育成」を掲げた、文武を教える総合学校です。会津藩士の中でも花色紐組(上士)以上の子弟は全員入学が義務付けられるなど、会津藩がいかに教育熱心であったかがわかります。
会津藩の子弟は、6才頃から有名な「什の掟」という藩士としての心得を教え込まれ、10歳になると日新館に入学します。15歳まで素読所(小学)に属した後に、修了した者で成績優秀者は、講釈所(大学)への入学が認めらます。優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されたことから、全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であったといえます。
日新館の教育を受けられるのは男子のみでしたが、戊辰戦争の前に結婚した川﨑尚之助が日新館の教授を務めるなど、新島八重とも深い関わりがあります。また、八重の生家である山本家は藩の砲術指南という高い家柄で、八重の兄 山本覚馬は会津藩の教育制度により日新館で学んでいます。
日新館で、覚馬は剣、槍、馬術など武芸にすぐれた才能を発揮し、成績優秀者として江戸遊学というチャンスを得ます。江戸遊学では、西洋式の砲術や蘭学を学ぶだけではなく、江戸にのぼってくる各藩の優秀な人材にも接触し、国家という意識、世界のなかの日本という意識に目覚めました。 それまで会津しか見えていなかった覚馬にとって、江戸遊学は人生の転機だったといえます。成長し会津に帰った覚馬は、母校日新館で教鞭をとり、会津の人材育成に努めました。
覚馬を心から慕っていた八重。女性ながらも広い視野を持ち、志高く生きたその背景には、この優秀な兄が大きく影響しているに違いありません。
お問い合わせ
會津藩校日新館
TEL:0242-75-2525