八重が学んだ「精神」。新島八重の人生・哲学を育んだ、福島の地。その精神を今に伝える名跡・文物・歴史を紹介します。

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田中玄宰(はるなか)

3代の藩主に仕え 会津伝統産業の礎を築いた名家老

田中玄宰

玄宰の墓

会津藩の名門家老の家柄である田中家に生まれた玄宰。会津藩5代藩主の松平容頌(かたのぶ)が中興の祖といわれたのは、家老・玄宰の活躍があったからだといわれています。祖先は、保科正之に仕えた名家老・田中正玄(まさはる)で、玄宰は正玄から数えて6代目にあたります。正玄は、当時の幕府の老中・土井利勝が、尾張の成瀬隼人、紀州の安藤帯刀とともに「天下の三家老」に上げたほどの人物でした。

宝暦10(1748)年、13歳で1000石の家督を継ぐと、その後は順調に出世。29歳で奉行職、天明元(1781)年、34歳で家老職につきました。その当時、会津藩は財政難で、57万両もの借金がありました。この時玄宰は、容頌に藩政の改革を願い出ますが、許されず一度は家老職を退きます。しかし、天明5(1785)年、再び家老に任命されると、その2年後、再度、容頌に改革案を提出。これが認められ、藩政の改革が次々と実施されます。

田中玄宰

会津藩校日新館跡

政改革を成功させた熊本藩を手本にした玄宰は、改革の成功が文武の振興と殖産興業の奨励にあると考え、(1)武備の充実、(2)学校の拡大、文武の道の講究、(3)人材の登用、(4)節約、(5)刑罰の法を定める、(6)上下の身分をはっきりする、(7)賞罰を明らかにする、(8)村々の支配と風俗を正す、以上の8項目からなる改革の骨子を提出します。

一方で兵法に関しては、これまでの河陽流から長沼流に変更。また教育では、熊本藩の儒者・古屋重次郎の意見を参考に「藩校日新館」を設立。日本三大藩校に数えられる日新館は、その後多くの優秀な人物を輩出しました。ほかにも、5人組の強化、目安箱の設置、間引きの悪習を改めさせ産子養育政策を取るなど、様々な工夫を重ねます。

田中玄宰

小田山の山頂からながめる鶴ヶ城

さらに、漆の栽培を奨励。漆器は京都の蒔絵師を招いて職人に学ばせ、養蚕染色は京都西陣の織り師や染め師から製法を学びました。会津本郷の陶磁器も伊万里焼を学び、白磁の基礎を作りました。また、灘から杜氏を呼び、これまで造られていた酒よりも良質の酒造りに成功、材木町に藩営の酒造蔵を建て「清見川」の銘柄で売り出しました。薬用人参の栽培にも力を入れ、輸出品として収入を上げています。このように、玄宰は次々と改革を実行、会津藩が発展する基礎をつくりました。

容頌・容住(かたおき)・容衆(かたひろ)という3代の藩主に仕えた玄宰の墓は、「我が骨は城と日新館の見えるところに埋めよ」という遺言を受けて小田山山頂に建てられました。

田中玄宰の墓

小田山

〒965-0822 福島県会津若松市花見ヶ丘三丁目


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