八重が学んだ「精神」。新島八重の人生・哲学を育んだ、福島の地。その精神を今に伝える名跡・文物・歴史を紹介します。

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渡部鼎(わたなべ かなえ)

野口英世が医学を志すきっかけ 世界各地で見識を広め日本医療の進歩に貢献

渡部鼎

渡部鼎肖像(於:サンフランシスコ)

安政5(1858)年、漢方医・儒学者で後に野沢原町村(現、西会津町)に私塾・研幾堂(けんきどう)を創設する渡部思斎(しさい)の長男として誕生。父に師事し、研幾堂で同い年の親友・石川暎作(アダム・スミス『富国論』を翻訳)と互いに切磋琢磨するなど、周囲から大きな影響を受けながら多感な少年期を過ごしました。

山川健次郎・捨松兄妹がアメリカ留学生として選ばれたことに刺激を受け、明治5(1873)年、研幾堂の兄弟子・野澤雞一を頼って上京し、横浜の高島英学校に入学。同校教授をも兼務していた福沢諭吉らに英学・各国史を学びます。翌年には親友・石川暎作も高島英学校に入学してきます。そんな折、父・思斎は『郵便報知新聞』に弟子の野澤雞一や石川暎作、鼎らに規戒の一文を投稿し、「世界中に自分の学んだことを生かして広めるよう頑張れ」と激励しました。偶然この記事を見つけた鼎はこれに感激し、父と同じ医学の道を選択。新聞記事を切り抜いてお守り袋に入れ、肌身離さず持ち歩いていたといいます。

明治7(1874)年には大学南校から東京医学校(現、東京大学医学部)に入学。明治10(1877)年、若干18歳で警察医や陸軍軍医試験などに合格し、警察病院勤務をはじめ、大阪陸軍病院や医学校の講師などを歴任。また、脚気(かっけ)の原因について新学説を発表したりコレラの新しい治療法を発見したりするなど、精力的に活動します。鼎は戸籍上の「渡部」が、「わたべ・わたふ」と呼ばれることを好まず、「渡邊」を使用しました。

明治18(1885)年、石川暎作と共に「婦人束髪会」を創設。それまで日本女性の髪型は髷を結う日本髪でした。日本髪を結うには、形が崩れないようにびん付油を使って髪を固めます。鼎は医学的立場から、暎作は女性の地位向上のため、日本髪は不衛生で不自由だとして、髪をきっちり固めず結うだけの束髪を勧めました。2人の活動は瞬く間に全国に広がり、現代の理容の礎を築き、女性の健康・地位向上と日本経済に大きな影響をあたえました。

渡部鼎

当時では珍しい三角柱の形をした、鼎が建てた父・思斎の墓石

明治20(1887)年、カリフォルニア大学医学部に入学。ドクトルの学位を取得し、サンフランシスコで医院を開業します。鼎は海外で医師として開業した日本人の先駆けといわれています。明治22(1889)年には欧州を周遊し、医学のみならず各国の社会事情も研究します。

しかし、明治23(1890)年、父・思斎の訃報を受けて日本に帰国。会津若松市に会陽医院を開業しました。2年後の明治25(1892)年、野口英世が幼いころに負った左手の火傷の手術を受けにやってきます。鼎の最新医学に感動した英世は、明治26(1893)年、猪苗代高等小学校を卒業後、医師への道を志し鼎の元へとやってきます。鼎は英世の志を知ると快く承諾し、書生として会陽医院に住み込ませ、医学の指導にあたりました。

英世が医師の資格を取得し独り立ちすると、日清・日露戦争に軍医として従軍していた鼎は政治の世界へ。父・思斎は選挙の応援演説の熱弁中に倒れて亡くなっており、「代議士になるは親の遺言なり」と選挙活動に専念します。明治35 (1902)年と翌年の総選挙に若松市選挙区から立候補して、衆議院議員を2期務め、厚生行政の分野で活動しました。

医療・政治の分野で幅広い活動をした渡部鼎。その人生はバイタリティーに溢れ、野口英世に医学への道を開眼させるなど、医療の歴史にとても大きな影響をあたえました。

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