八重が学んだ「精神」。新島八重の人生・哲学を育んだ、福島の地。その精神を今に伝える名跡・文物・歴史を紹介します。

HOME » ふくしまと八重 八重が学んだ「精神」 » 蒲生氏郷

蒲生氏郷(会津若松市)

会津若松の礎を築いた文武両道の名将

蒲生氏郷

氏郷没後の翌年、子息の秀行によって建塔された五輪塔(墓)

弘治2(1556)年、近江国(現在の滋賀県)日野城主・蒲生賢秀の子として生まれた蒲生氏郷。賢秀が織田信長に仕えるようになると、氏郷は人質として信長のもとに送られますが、信長にその才能を見出され、娘の冬姫と結婚します。その後本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉に仕えるようになります。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与え、信長の天下統一を引き継いだ秀吉に従い、数々の戦いに従軍。一連の功により、会津42万石(後に92万石)があたえられます。

会津に入った氏郷は、それまで黒川と呼ばれていた町の名前を郷里の近江にあった「若松の森」にちなんで「若松」に改め、甲州流の縄張り(城を造る際の基本設計)で城造りを行います。七層の天守閣を持つ城・鶴ヶ城の名前は、氏郷の幼名が鶴千代であったこと、蒲生家の家紋が鶴を象(かたど)っていたことなどから、名づけられたといわれています。葦名時代からの城下を一新、家臣の屋敷を郭内に建て、外堀を築き、郭外に庶民を住まわせ、その要所に神社やお寺を配置、現在の会津若松の町並みの基礎を築きました。

さらに氏郷は会津の産業の発展にも貢献します。これまで治めてきた近江の日野、伊勢の松阪から商人を呼び、定期市を開設します。市内大町に残る十日市は今も新年の会津の風物詩になっています。また、商人の他にも、木地師と呼ばれる木工職人と塗師を招き、会津漆器の基礎をつくります。本格的な酒造りも氏郷が近江から呼び寄せた杜氏によってはじめられたといわれています。

家臣を大切にし、諸大名からの人望も厚かった氏郷は、数々の武勲を挙げた勇猛な武将として知られていますが、他方で、和歌や茶道に理解のある文化人としても有名です。千利休の高弟7人を指す「利休七哲」の筆頭に挙げられ、利休が切腹した後は、その子・少庵を会津にかくまいます。その際、少庵が氏郷のために造ったと伝えられるのが鶴ヶ城内にある茶室麟閣です。また、キリシタン大名としても知られています。

蒲生氏郷

氏郷辞世の歌碑。文学的にも高い評価を受けている。

文禄元(1592)年、秀吉が李氏朝鮮と戦った文禄の役の際で肥前名護屋より帰着。この時体調を崩し、文禄4(1595)年2月7日京都の蒲生屋敷で亡くなりました。
辞世の句は、「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」
興徳寺には、氏郷の遺髪を収めた五輪塔と辞世の歌碑が建てられています。

興徳寺

福島県会津若松市栄町2−12

福島県観光交流局観光交流課
TEL.024-521-7398/FAX.024-521-7888