八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

HOME » ふくしまと八重 八重を育てた「家族」 » 山本佐久

山本佐久

この母あって、娘・八重あり―

佐久の写真

往年の佐久。堂々とした面持ちでその人柄が覗えます。(写真提供/同志社大学)

八重の生まれた山本家が砲術師範をつとめるようになったのは、祖父の左兵衛の代からといわれています。左兵衛には「佐久」という一人娘がおり、これが八重の母親です。佐久が17歳のとき婿養子に永岡繁之助(後に権八を名乗る)をむかえます。権八と佐久との間には6人のこどもが産まれていますが、健康に育ったのは長男の覚馬と5人目の八重、6人目の三郎だけでした。

佐久は気丈で聡明な母親だったようです。覚馬が後年になっても、「自分はとても母の聡明さにはおよばない」と語っていたほど。会津若松城下に天然痘が大流行したときには、まだ一般的でなかった種痘の必要性を説いてまわるなどし、先進的な思想の持ち主でした。

「今はわずかな禄を戴く小家ではあるけれど、自己を磨いて修身にいそしめば、やがて必ず社会に認められるときがくる」

これは、佐久が子ども達に言ってきかせた言葉といわれています。この敬愛する母の元で、八重は会津士魂を胸に秘めつつ、時代にとらわれない柔軟さをもった女性へと成長するのです。

写真:八重生誕の碑

山本覚馬・八重生誕の碑
住所:会津若松市米代2

佐久も戊辰戦争では鶴ヶ城に籠城して戦った女性のひとりですが、のちには覚馬を頼って八重と共に京都にやってきます。同志社女子学校が開設されたとき、五年間も寮の舎監を務めたほど教育に尽くしました。
八重の持つ強さと優しさは、この母から受け継いだのでしょう。

福島県観光交流局観光交流課
TEL.024-521-7398/FAX.024-521-7888