HOME » ふくしまと八重 八重を育てた「家族」 » 山本佐久
八重の生まれた山本家が砲術師範をつとめるようになったのは、祖父の左兵衛の代からといわれています。左兵衛には「佐久」という一人娘がおり、これが八重の母親です。佐久が17歳のとき婿養子に永岡繁之助(後に権八を名乗る)をむかえます。権八と佐久との間には6人のこどもが産まれていますが、健康に育ったのは長男の覚馬と5人目の八重、6人目の三郎だけでした。
佐久は気丈で聡明な母親だったようです。覚馬が後年になっても、「自分はとても母の聡明さにはおよばない」と語っていたほど。会津若松城下に天然痘が大流行したときには、まだ一般的でなかった種痘の必要性を説いてまわるなどし、先進的な思想の持ち主でした。
これは、佐久が子ども達に言ってきかせた言葉といわれています。この敬愛する母の元で、八重は会津士魂を胸に秘めつつ、時代にとらわれない柔軟さをもった女性へと成長するのです。
「今はわずかな禄を戴く小家ではあるけれど、自己を磨いて修身にいそしめば、やがて必ず社会に認められるときがくる」