八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

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新島襄

自由を求めてアメリカへ―翼を得た青年は教育者の道を歩み、八重を理解するよき夫に

新島襄

写真提供/同志社大学

天保14年1月14日(新暦1843年2月12日)、安中藩江戸屋敷(現・東京都神田)で父・民治、母・とみの長男として生まれます。民治ととみの間にはすでに4人の女の子がおり、襄はやっと生まれた男の子でした。祖父の弁治はその報を聞いて「しめた!」と言って喜んだそうで、そこから襄の幼名は「七五三太(しめた)」と名づけられたといわれています。

幼いころの襄はタコあげやコマまわしなど、家の外で活発に遊ぶ子どもでした。こめかみにある傷は遊んでいる途中、うっかり足を踏み外した時にできた傷。10針以上縫う大けがで、2カ月近くも家で療養しなくてはいけないほどだったといいます。これにこりた襄は、荒っぽい遊びはしなくなり、読書や習字のけいこで1日を過ごしました。こめかみの傷を見られるのが嫌で人と会うのをためらうようになり、知らない人に会うと言葉も交わせないほどのはみかみ屋になってしまいます。

そんな襄を見かねた母は、礼儀作法を教える塾へ通わせました。下級武士の子どもだった襄は、外出するようになって自分のまわりにいるのは身分の高い人ばかりなのを知り、とても驚きました。道はすみのほうを歩き、身分の高い家臣が通れば、丁寧にお辞儀をしなくてはならない。下級武士の子どもとして生まれたからにはしかたがないと、自ら言い聞かせても、反発する心を抑えることはできませんでした。

新島襄

脱国時の服装
写真提供/同志社大学

下級武士の子として、新島家の長男として、型にはめられ思い通りにいかない日々を過ごしていた襄。ある日友人からアメリカについて書かれた本を借りて読み、大統領の制度などを知り、憧れを抱くようになります。さらに漢文のキリスト教書物を読んだ襄はその教えに共感し、自由の国・アメリカへ行こうと心に決めます。函館行きの船に乗るチャンスを手にした襄は、そこで自分の考えに賛同してくれるよき友人たちに恵まれ、アメリカ行きを実現させました。この時の襄は21歳。夢と希望を胸に、自分の理想を追い求める青年となっていました。

アメリカに着いた襄は、上海からアメリカまで襄を乗せたワイルド・ローヴァー号の船主、ハーディー夫妻の援助を受け、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学びます。異国人の自分に親切にしてくれるハーディー夫妻、自らの勉強の時間をさいて襄に勉強を教えてくれる隣人フリント夫妻。襄はキリスト教の精神と民主主義の思想を学び、自分の理想とする国はアメリカであると確信し、キリスト教の洗礼を受けます。

そしてアメリカで勉強し、精神や思想にふれるうちに、蒸気機関車や電信電話の技術など、西洋文明の表面的なところだけではなく、その文明が成立した根幹であるキリスト教を知ることのほうがもっと重要だと考えるようになります。襄はアメリカの文明を築いた精神を日本に伝えることが自分の使命だと感じ、宗教者ならびに教育者として生きることを心に決めました。

新島襄

同志社英学校の生徒たちと
写真提供/同志社大学

アンドーヴァー神学校を卒業し、日本への帰国が決まった襄。アメリカン・ボード(海外伝道組織)というミッションの年次大会で、日本でキリスト教主義の大学設立の必要性を訴え、その切なる演説に心を動かされた人々から、寄付の約束を得ました。
自分の使命を果たすべく帰国した襄は、外国人宣教師のデイヴィス(神戸)やゴードン(大阪)らのいる関西で学校を設立しようと考えました。しかし大阪府知事は学校の設立は認めるものの、外国人宣教師を教師として雇うことは認めませんでした。これでは、襄の考えるキリスト教主義の学校として成り立たず、大阪での設立は断念せざるをえませんでした。

そんな中、現状を打破し心をリセットするため京都へ観光旅行に出た襄は、ふとしたきっかけで京都府知事・槇村正直や京都府顧問・山本覚馬と出会い、京都での学校設立を考えるようになります。アメリカン・ボードの在留宣教師会で京都での学校設立が話題になると、覚馬は自分の所有していた旧薩摩藩邸を学校敷地として比較的安い値段で提供しました。明治8(1875)年、念願の同志社英学校開校。教師2人、生徒8人の学校でした。

しばらく結婚はしないと考えていた襄ですが、健康が思わしくなくなり、結婚を考えるようになります。ただし襄の理想の相手は、夫が東を向けと命令したら、3年でも東を向くような女性ではないこと。まわりに流されない強い意志を持ち、自ら進んで行動する八重は、襄にとってまさに理想の女性でした。よき伴侶を得た襄は、自分の理想の実現、キリスト教教育をさらに広げるための活動に全力をそそぎました。

襄と八重の夫婦仲はとてもよく、レディーファーストを敢行する襄に対して、それを快く受ける八重でした。彼女はまわりが何を言おうとも気に留めず、自分のスタイルを貫きました。襄がハーディーへ送った手紙には「彼女は見た目は決してハンサムではありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と書いてあります。

晩年の襄は自分の死が近いことを悟ると、八重が生活に困らないようにと準備を整えています。友人の山林地主に300円の出資をしてマッチ樹木の株主となり、その利益を妻に配分してほしいと託したのです。その発想からは襄の八重へのあふれんばかりの愛情が感じられます。

明治23(1890)年、静養先の大磯で病状が急変し永眠。享年46歳で、生涯を閉じました。

福島県観光交流局観光交流課
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