八重を育てた「家族」。新島八重を育てた母、砲術を教えた兄、そして夫など、八重とその家族たちを紹介します。

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コラム:新島八重を育て、支えた 山本家の人々

柔軟性と先見性に優れていた両親。エリート藩士のDNAを受け継いだ兄弟

新島八重の写真

写真提供/同志社大学

昨年末、2011年の世相を表す漢字に『絆』が選ばれた。未曾有の事態となった東日本大震災や台風12号などの自然災害が相次いだ中で、家族や仲間との『絆』を再確認した方も多いだろう。「未曾有の事態」というキーワードで考えるならば、県内各地が戦場となり多数の死者を出した戊辰戦争も、このくくりに当てはまるのではないだろうか。そんな激戦を、強くそして勇ましく生き抜いた新島八重。彼女の心には、いつも家族の存在があった。“幕末のジャンヌ・ダルク”を育んだ山本家の人々とは、一体どのような人間だったのだろうか。

母親:佐久の写真

写真提供/同志社大学

会津藩の砲術師範役であった八重の父・山本権八(ごんぱち)。いわゆる“砲術のスペシャリスト”で、藩内でもトップレベルの砲術師だった。それを証拠に、彼は若いころ、才能ある者にだけ許される江戸への『傾(かたむ)き修行』に、藩を代表して行ったほど。一方、山本家という武家に育った母・佐久(権八は山本家の婿)は、やさしくて控えめな良妻賢母タイプ。蘭学を学んだ覚馬や男まさりな八重を支えるような存在であった。

兄:覚馬の写真

写真提供/同志社大学

八重に最も影響を与えたといえるのが、兄・覚馬。白虎隊士に砲術指南したことで知られている八重だが、彼女に砲術を教えたのは覚馬であった。そんな彼の才能は砲術・蘭学だけにとどまらず、日新館在学中には馬術・槍術・刀術を極めたほど。身体能力も相当のレベルであったと推測することができる。鳥羽・伏見の戦いで負傷し、その後、江戸で亡くなった弟・三郎。籠城戦で八重が男装した際の着物と袴は、彼のものだった。また三郎も、藩を代表して江戸に修行に行くほどの才能あふれる会津藩士であった。

自らの子どもたちをとがめることもなく、その道のエキスパートとして生きていくことを認める“柔軟性”、次の時代に必要なものを見極める“先見性”を、八重の両親は持ち合わせていた。そして兄・覚馬と弟・三郎は、エリート藩士のDNAをしっかりと受け継いでいたのだ。

江戸・明治・大正・昭和と、激動の時代をエネルギッシュに生きた新島八重。彼女を育て、支えた家族との強い絆こそが、彼女を突き動かす原動力になっていたのかもしれない。

福島県観光交流局観光交流課
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