HOME » ふくしまと八重 八重が生まれた「時代」 » 智恵子の生家・智恵子記念館
智恵子は、詩人で彫刻家である高村光太郎の妻です。智恵子自身、当時の女性ではめずらしい洋画家でした。智恵子が油井村(現在の二本松市)に産まれたのは、八重が京都で夫の襄と新しい生活を始めていた明治19(1886)年。大きな造り酒屋の長女として不自由無く暮らし、福島高等女学校を卒業後、日本女子大学校に入学しました。そこで人生のターニングポイントを迎えます。大学に入ると芸術に強く興味を抱くようになり、さらに卒業後、親の説得に逆らって東京に残ってしまいます。自分の意思を貫き洋画家の道を選んだのです。また、油絵を学ぶ一方で、女子思想運動にも参加するなどの活動も行いました。
大正3(1914)年、28歳の時に光太郎と結婚。この仲を取り持ったのが大学の同期生“柳 八重”でした。偶然ではありますが“新島 八重”と同名です。
結婚後、二人はアトリエで愛を育んでいきます。しかし、智恵子はどうしても東京に馴染むことが出来ません。病気がちなこともあって一年のうち三、四ヶ月は二本松の実家に帰っていました。また、油絵もなかなか評価されることが無く、智恵子は悩んでいたようです。さらに、追い討ちをかける様に、様々な不幸が重なります。実父の死、家業の酒屋廃業、そして一家離散。次第に心を病み、45歳頃に精神病の兆候が見られるようになりました。
病床に着いた頃、出会ったのが「紙絵」でした。病気に良いと、光太郎に勧められたのです。光太郎に見せたいがためにほぼ毎日作ったといい、その数は千数百点にも及びます。色使いや表現からは、智恵子の“豊かさ”や“温もり”があふれ、光太郎への愛が感じられます。
昭和13(1938)年に智恵子は亡くなってしまいますが、智恵子の“愛”に応えるように、光太郎が妻への想いを記した「智恵子抄」は、今なお多くの人の心を掴んで離しません。
その中の詩『あどけない話』に、「阿多多羅山(安達太良山)の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ」という一節があります。東京に馴染めない智恵子が、故郷の空を懐かしく想う様を読んだものです。
「ほんとの空」は、2人が手を取りあって登った鞍石山(智恵子の杜公園)から見ることができます。安達太良山と阿武隈川の両方を眺められる貴重な場所です。そのふもとに、「智恵子の生家」と、智恵子達が、戦争中必死に守った紙絵や絵画が見られる「智恵子記念館」があります。彼女を育んだ場所で思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
〒969-1404 二本松市油井字漆原町36
お問い合わせ:二本松市教育委員会事務局 文化課
TEL:0243-55-5154
二本松市智恵子記念館
TEL:0243-22-6151