新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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日本のナイチンゲール

従軍看護の道へ

篤志看護婦姿の八重

篤志看護婦姿の八重
(写真提供/同志社大学)

襄を亡くした後、ほかに何か社会に貢献できないかを考えた八重は、看護の道へと進みます。
明治26(1893)年、京都に日赤篤志看護婦人会が設立されると、八重はいち早く会員として参加しました。篤志看護婦人会とは、皇族や華族の夫人が参加して組織された会です。ボランティアナースなので、無償での奉仕でした。籠城戦で怪我人の世話をした経験も、八重の看護に対する思いを作り出したひとつの要因だと考えられます。

翌年の明治27(1894)年、日清戦争では篤志看護婦として傷病兵の看護に従事し、その功績が認められ、明治政府から「宝冠賞」(1888年に創設された女性のための勲章)勲7等を授けられます。さらに明治38(1905)年にも、日露戦争の篤志看護婦として勲6等の勲章を授けられています。皇族の女性は別として、民間女性が始めて授けられたケースです。

看護以外にも、京都女紅場(後の京都府立鴨沂高等学校)で出会ったと思われる茶道を、女子の職業としていかせないかと注目していました。特に晩年は茶道に没頭したといいます。しかし、八重が茶道裏千家の門をたたいたのは、襄の死から4年後の明治27(1894)年のことです。日清戦争に向かっていた世のなかでは、看護に従事することのほうが優先されていたのです。
八重の生涯にわたる社会福祉活動を称え「日本のナイチンゲール」と呼ぶ人がいます。

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