新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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槙村正直

京都を立て直すため 多彩な施策を展開

槙村正直

同志社社史資料センター所蔵

天保5(1834)年、長州藩下士・羽仁正純の二男として生まれます。幼いころから学問・武芸とも優秀な成績で、それを見込まれ、21歳の時に槙村家に養子として迎えられました。幕末の動乱期には蜜用聞次役(現在の公安警察のようなもの)として活躍し、維新後の明治元年、木戸孝允の推薦で京都府に出仕するようになりました。東京に政治の場が移り、徐々に影をひそめる京都。槙村は京都府大参事(京都府副知事)時代から実質的に府政を取り仕切り、府顧問の山本覚馬の助言を受けて教育や文化、農業や工業といった、ありとあらゆる京都復興のための施策を次々と展開していきました。

槙村が八重や襄と出会ったのもこのころです。八重が覚馬の推薦で教師をしていた女紅場(にょこうば)は、槙村の施策により建てられたものでした。その女紅場への援助を求めてたびたび訪問してくる八重に、槙村は手を焼いていました。ある日、襄と結婚の話になり、「夫が東を向けと命令したら、3年でも東を向くような女性は嫌です」という襄に八重を薦めます。この時は気にも留めなかった襄ですが、後に八重と結婚することになり、槙村が2人の仲を取り持ったといえるでしょう。

京都の近代化が進んでいくと、少々強権的だった槙村の敏腕も、府議会との不調和音を引き起こすなど陰りが出ます。明治14(1881)年、京都府知事を退き、元老院議官に任命され東京へ赴任。その後行政裁判所長官、貴族院議員を歴任しました。

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