新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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J.D.デイヴィス

新島襄の「右腕」的存在であり 八重とのつながりも深い宣教師

J.D.デイヴィス

新島夫妻とのかかわりが深かったデイヴィス(写真右)

アメリカ人宣教師で、同志社英学校創立時の教員の1人。元々は神戸で宣教師として活動していましたが、明治8(1875)年、同志社英学校を開校する襄を手伝うため、京都にやってきました。
翌年、八重がプロテスタントの洗礼を受けた「洗礼式」や襄との結婚式の会場となったのは、デイヴィスが借りていた柳原前光(さきみつ)邸(現在は国立京都和風迎賓館が建つ)でした。また男性宣教師の中では八重に最も近い存在で、八重はデイヴィスが開いた女子塾を手伝ったことがありました。

同志社大学京田辺キャンパスには、彼の名前を冠した「デイヴィス記念館(総合体育館兼講堂)」があり、入学式や卒業式などが行われています。正面ロビーには、彼の言葉「My life is my message(私の生涯が、私の遺言)」が掲げられています。

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