新島八重が貫いた「誇り」。戊辰戦争後、京都に移り住んだ新島八重。彼女の後半生を彩る様々な人々とのふれあいを中心に紹介します。

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コラム:会津の女は強い!!

自らの行動と意志を貫き 「鹿鳴館(ろくめいかん)の貴婦人」に

文明開化の象徴ともいわれた「鹿鳴館」。毎晩のように海外の賓客を招いて、舞踏会が開催されていた。その中に、ひときわ注目を集める女性がいた。彼女の名は大山捨松(おおやますてまつ 旧姓:山川)。彼女も新島八重と同じく、不屈の精神で人生を切り開いた会津の女性だった。

万延(まんえん)元(1860)年、捨松は会津藩家老・山川尚江の五女に生まれた。兄は、東京大学総長となった山川健次郎。8歳で籠城戦を経験し、戊辰戦争後は函館に預けられた。

1度目のターニングポイントは、彼女が12歳だった明治4(1871)年。政府が派遣する、日本最初の女子留学生に選ばれ、アメリカに渡ることになったのだ。幼くして家族と離れ、遠い外国で暮らすのは、どんなに心細かったことだろう。しかし捨松は、このチャンスを無駄にはせず、よく学び、ヒルハウス高校を卒業して、ヴァッサー大学に進学。才色兼備の彼女は、学年会会長に選ばれるほどの人気者だった。

その11年後、捨松は帰国。彼女は大歓迎されると予想していたが、実際はそうではなかった。男尊女卑の風潮が残る当時の日本には、留学した彼女に与えるような仕事がなかったのである。アメリカでの充実した生活とはうって変わって、失意の日々が待っていた。

それから約1年後、2度目のターニングポイント。陸軍大臣・大山巌(おおやまいわお)に見初められ、求婚されたのだ。しかし、捨松の家族は猛反対した。巌は元・薩摩藩士で、会津攻めの砲隊長として、小田山から鶴ヶ城を砲撃した人物だった。山川家はきっぱりと断ったが、巌はあきらめない。熱心な巌の姿に、山川家では「捨松が承諾すれば結婚を許す」と答えた。捨松は「相手を知った上で返事がしたい」とデートを重ね、次第に巌の人柄に惹かれるようになり、結婚を決意する。親が結婚を決めていた時代に、捨松は、人生の伴侶を自ら選んだのだ。

政府高官の妻となった捨松は、明治の社交界で活躍した。鹿鳴館では、日本の貴婦人たちに西洋式の礼儀作法を教え、アメリカ仕込みのステップと流暢な英語で人々を魅了。「鹿鳴館の貴婦人」ともよばれた。留学で身に着けた、教養と語学力が実を結んだのである。

逆境をはねのけた彼女の生き方は、今、苦境に立たされている私たちに、大きな希望と勇気を与えてくれている。

福島県観光交流局観光交流課
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