八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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小田山(会津若松市)

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小田山

山の中腹にある西軍砲台跡。市内を一望することができます。

会津のシンボル・鶴ヶ城の南東に位置する標高372mの山。古くは、会津地方を長きに渡り治めた葦名氏の本拠地・小田山城が築かれました。

戊辰戦争における鶴ヶ城での籠城戦とも、深いかかわりがあった小田山。新政府軍の城下侵入後、城の東にあった極楽寺の僧侶は、小田山の地形が軍事的に優れていることを密告します。城までは直線距離でおよそ1.5km、十分な射程距離でした。城下侵入から3日後、新政府軍は小田山を占拠。中腹に砲台を築き、鶴ヶ城に向けて砲弾の雨を降らせたのでした。この時、籠城していた新島八重は、最初の夫である川崎尚之助と共に、城南にあった砲台から小田山の砲台へ反撃しています。

当時の新政府軍の砲台跡は「西軍砲陣跡」として残されているほか、山頂には会津藩の名家老として名高い田中玄宰(たなか はるなか)の墓、北方警備の軍事奉行として樺太にも赴いた丹羽能教(にわ よしのり)をはじめとする丹羽家の墓もあります。さらに、柴四朗・五郎兄弟の墓がある恵倫寺(えりんじ)、会津藩と共に戦った長岡藩の家老・河井継之助(かわい つぎのすけ)の墓がある建福寺、白壁塗りの山門や家老・西郷頼母の妻・千重子の辞世の句を刻んだ「奈与竹の碑」で知られる善龍寺など、西麓には戊辰戦争と関係の深い廟所・寺院も多数。現在は「小田山公園」として整備され、会津若松市内が一望できるスポットとして市民の憩いの場になっています。

小田山

西軍砲台跡から望む鶴ヶ城(画面中央)。

小田山

西軍砲台跡から望む鶴ヶ城(画面中央)。

小田山

山頂にある会津藩の名家老・田中玄宰の墓。

小田山

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