HOME » ふくしまと八重 八重が刻んだ「足跡」 » 中野竹子殉節之地碑
慶応4(1868)年、新政府軍が会津若松城下に迫ったときのことでした。中野竹子は母・こう子、妹・優子と共に、籠城しようと鶴ヶ城へと急ぎます。しかし、城内に入ることができませんでした。その時竹子たちは岡村すま子、依田まき子、菊子と出会い、行動を共にする女性だけの部隊を結成。後世に語り継がれる「娘子軍(じょうしぐん)」の誕生です。 竹子たちは藩主・松平容保の義姉である照姫が坂下宿に避難したという話を聞いて、その護衛部隊になろうと坂下へ向かいます。しかしそれは誤報でした。その後、竹子たちは坂下宿の法界寺で一晩過ごし、再び照姫のいる鶴ヶ城へ向かって出陣します。途中、城下西北の高久宿に駐留していた萱野権兵衛に、参戦を願い出ました。渋る権兵衛に「許されなければ自刃する」と粘り強く交渉し、旧幕府軍の衝峰隊と行動を共にすることになりました。
翌日、神指町黒川の柳橋で新政府軍と交戦。竹子は真っ先に薙刀を振るいましたが、額に(胸という説もあり)敵の弾丸を受けてしまいます。駆けつけたこう子と優子に、竹子は「敵に首級(しゅきゅう)を渡したくない」と介錯を頼みました。当時16歳だった優子が首を切り取ったといわれていますが、髪が絡みついてうまく切り取れなかったので、農兵が切り取ったという説もあります。享年22歳という若さでした。竹子の首は坂下宿まで届けられて、法界寺の梅ノ木の根元に埋葬されました。
昭和13(1938)年、戦死した柳橋近くの湯川端に、「中野竹子殉節之地碑」が建碑されました。碑の裏面には、出陣の際に薙刀に結び付けてあったという辞世の句「武士(もののふ)の 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」が刻まれています。
所在地
福島県会津若松市神指町大字黒川街道西250付近