八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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河井継之助(かわいつぎのすけ)

平和を望んでいた長岡藩の名家老 奮戦するも会津で死亡

河井継之助(かわいつぎのすけ)

河井継之助(写真提供/長岡市立中央図書館)

文政10(1827)年1月1日、長岡城下長町(ながおかじょうかながちょう:現在の新潟県)に生まれました。継之助は通称で、本名は秋義(あきよし)といいます。子どものころから聡明で、文武に秀でた神童といわれていました。26歳の時に1度目の江戸へ遊学に行き、山本覚馬と同じ、佐久間象山の元で学んでいます。31歳で家督を相続した後、32歳で再び遊学。西方を巡り、藩政や世界情勢について学びました。

遊学から戻ると、長岡藩の家老となり藩政改革を断行。財力を養い、当時の日本には3門しかなかったガトリング砲(機関銃)を2門購入するなど、藩の近代化に努めます。

ガトリング砲

ガトリング砲(写真提供/長岡市観光課)

戊辰戦争が起こったときには、中立的な立場に立ち、平和的な解決を望んでいました。小千谷(おじや)の慈眼寺(じげんじ:新潟県小地谷市)で「人民を苦しめ、国土を荒廃させる戦争は避けたい」と新政府軍の岩村精一郎に訴えますが、交渉は決裂。交戦を決意します。

継之助は長岡藩を率いて、新政府軍と激しい戦いを繰り広げました。巧妙な作戦で、会津藩家老・佐川官兵衛と共に、1度は新政府軍の手に落ちた長岡城を奪還。しかしこの時、左膝に流れ弾を受けてしまいます。その後、再び長岡城は落城。会津へ逃れますが、傷が悪化し、只見町塩沢で42年の生涯を終えました。

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