八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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鶴ヶ城籠城戦(会津若松市)

会津の誇り・鶴ヶ城と運命を共に

籠城戦の始まり

鶴ヶ城

今の鶴ヶ城は復元されたものです。この城に藩士の家族は籠城しました。

「かーんと半鐘がなったら城内に入りませう」
武家階級の家族には、あらかじめ火事鐘が打たれたら鶴ヶ城内・三ノ丸に入るよう触(ふれ)が廻っていました。入城が間に合わず避難した者や自害に及んだ者、薙刀(なぎなた)の部隊を作り戦った者もいましたが、これ以外の者は降伏まで籠城しました。

八重はこの籠城戦において髪を切り、弟・三郎の袴を身に纏い、男装。スペンサー銃を持ち戦いに参加しました。新政府軍は当初から容赦なく城内へ砲撃を加えており、特に、当時最新とされた四斤砲(よんきんほう)という砲弾の威力はすさまじいものでした。この砲弾の不発弾を分解し構造を藩主・松平容保の前で説明したのは砲術に心得がある八重だったといわれています。焼弾という球形砲弾も盛んに打ち込まれましたが、勇敢な婦女子たちが濡布で発火寸前に包み込んだりするなどして大事を防いでいました。

籠城している子どもたちも、「安全と危険」つまり「生と死」の見極めに慣れると、打ち込まれた弾丸を拾って握り飯と交換してもらっていました。これを大人たちが加工して再利用。このことから、間接的ながら子どもたちも共に戦っていたといえます。

鳴り止まない鐘の音

鶴ヶ城

青空に映える鶴ヶ城。籠城時は穏やかに城を眺めることなどできなかったことでしょう。

籠城の期間を通じて、城内の時を告げる鐘は正確に撞(つ)かれていました。新政府軍の攻撃で隣接する櫓(やぐら)が炎上しても撞き手はひるまず、死傷者が出ても交代して時を告げ続けています。身の危険を省みずに確実に職責を果たした会津魂を持った人々。彼らが鳴らす鐘の音は、会津各地の大きな心の支えだったに違いありません。

戦い続ける会津藩だったが・・・

会津藩は自らの力や他藩からの応援によって戦況を好転できる望みが絶たれた後も、籠城を続けていました。会津の誇りである鶴ヶ城と運命を共にする覚悟だったのでしょうか、藩主を守り、城を保ち続ける限りは敗北ではないと考えていたのでしょうか・・・もしくは、その両方だったのでしょうか。

しかしこの頃、既に会津は数万の軍勢に埋め尽くされており四面楚歌の状況でした。徳川御三家の尾張・紀州はとうに新政府軍に寝返っていたため、「外様」である仙台や米沢各藩が恭順論を台頭してくるのは当然のことでした。

会津から来る使者に、米沢藩は 「もう援軍を出すのは無理だ」 と伝えました。さらに米沢藩は新政府軍から会津への攻撃を強要されようとしており、1日でも早く開城して欲しかったため、逆に降伏を勧めます。

鶴ヶ城、開城

城内では降伏についての議論が繰り広げられました。多くの者は城を枕に討ち死にの覚悟でしたが、人々の心身の疲労は限界に達していました。そして無情にも人々の命が次々と奪われ、負傷者も増え続けています。これ以上犠牲を増やすことは、もはや責任ある行動とはいえず、容保はとうとう降伏を決断しました。

鶴ヶ城は、新政府軍の砲撃で原型をとどめないほどに破壊されていました。よくここまで持ちこたえたと、新政府軍が呆気に取られたほどです。その鶴ヶ城の姿は見るも無残でしたが、同時に会津武士の意地と誇りの表れとなりました。

こうして、八重を含めた会津の人々の籠城戦は終わりを告げました。

鶴ヶ城籠城戦

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