八重が刻んだ「足跡」。新島八重や会津藩を激動の渦に巻き込んだ戊辰戦争。その戦争について紹介します。

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大壇口の戦い(二本松市)

新政府軍と二本松軍が激突 二本松少年隊も出陣

「木村銃太郎戦死之」碑

大壇口古戦場跡にある「木村銃太郎戦死之」碑。

慶応4(1868)年7月29日、板垣退助率いる新政府軍と、二本松藩士・丹羽右近(にわ うこん)率いる二本松軍が繰り広げた二本松の戦いの攻防の一つ。当時、二本松藩士の多くが白河口に出兵し兵力が不足していたため、やむなく木村銃太郎率いる少年隊に出陣を命じます。戦場となったのは、二本松城の南に位置する大壇口。小高い丘で、奥州街道を北上してくる新政府軍を食い止める、最後の砦でした。

決戦前日、銃太郎は少年隊士を連れて、大壇口へ向かいました。しかし、数え年13歳から17歳までの少年たちには、「命をかけて戦場に行く」という悲壮感はなかったようです。大壇口に到着した少年隊士は、畳を重ねて作った即席の防柵をたてて、敵を待ち構えました。

翌日、新政府軍は進軍してきました。対する二本松軍で大壇口を守っていたのは木村隊長率いるわずか25人あまり。木村隊長の合図とともに、少年隊士はいっせいに新政府軍の隊列めがけて砲撃を開始します。その砲撃は的確で、一時は新政府軍の前進を止めるほどでした。当時のことを、新政府軍の指揮官・野津道貫(のづ みちつら)は「我が軍は正面攻撃では奏功せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、恐らく戊辰戦争中第一の激戦であつたであろう」とある書物に記しています。

善戦するも、新政府軍の兵力に、少年隊は退却を余儀なくされます。木村隊長が少年隊士に次の指示をしようとした時、一発の銃弾が彼の腰部を貫きました。この傷では城に帰ることはできないと悟った木村隊長は、少年隊士に自分の首を落とすように命じます。少年隊士たちはこれを拒みますが、最終的には少年隊副隊長の二階堂衛守(にかいどう えもり)が介錯しました。

その頃の二本松城下は、すでに新政府軍の占領下にありました。城に残っていた老兵たちが必死の抗戦を続けましたが、二本松城はその日のうちに落城しました。
二本松の戦いでの二本松藩の戦死者は337名、負傷者は71名でした。

大壇口の戦い

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